image

SUMI-E HISTORY

close

美しさとは何か?

遠近法 細分化 認知

Dragonball2長期記憶と短期記憶、机に隠れた足があると認識するのは、人は「期待、記憶」で見るからだと、ソルソは述べる。(脳は絵をどのように理解するか 絵画の認知科学、新曜社、ロバート・L・ソルソ)ヒトの認知、視覚が「3次元のものを2次元で見て、3次元で理解するように、数億年以上進化してきた」という事実を、遠近法にあわせ解説している。よく言われるルネサンスによる遠近法の確立は線遠近法の確立であり、ぼかし、対象の大小などは、エジプト絵画、水墨画など、世界各地に存在していたと指摘している。

ヒトの認知が、長期記憶に基づいているならば、売れる絵画は、より多くのヒトの記憶、最大公約数に基づくものになるのではないか?芸術は社会の鏡であるという言葉は、このことを言っている。マーケティング、社会学的に、好みが細分化してしまった社会では、最大公約数はなんなのか。印象派、ピカソ、などは、目と脳の働きの科学的な分析、認知に関する哲学的な真理の追究を、絵を通して実現していたと言える。水墨画は、僧侶という職業が別にあった人も多い。洋の東西を問わず、絵画、美術にはパトロンがいた。ということは、マーケットは初めから細分化された、一部のものであった。再び、マーケットが細分化された世の中で、パトロンなしにアートで収入を得ることはどういうことなのか。

イデア 水墨画滲みと西洋絵画遠近法

Waterjump グチャグチャと描いた水墨画が、何かに見えるのは、脳が過去記憶から似たものを取り出すからだ。左甚五郎のぬけ雀が、ある朝飛び出すかどうか、見る人の経験に基づく。水墨画の紅葉が、一瞬紅く見えるのも、まず形を紅葉と認識し、その形をしたものが紅かった記憶があるので、一瞬紅く見えるのだろう。紅葉と認識されなければ、紅くもなく、また黄色の紅葉を思い出した人は、黄色く見えるだろう。重要なのは、モノは目が見ているのではなく、脳が認識するもので、ゆえに人それぞれ見え方が違うことを意識することだ。

アートでは、描いたものが見た人の脳に何を呼び起こすか、を考えて描く必要がある。ゼキは、プラトンなどギリシャの哲学者は、紙の上にある絵は、イデアを写した仮の姿として、否定的に捕らえられたが、イデア自体も描き手の中にある「恒常的なもの」なものだと述べた。恒常的なものは、人の経験に左右される。視点を定め描く遠近法は、西洋絵画の、イデアを万人の恒常的なものにしようとした試みではないか。

一方、グチャグチャに描く水墨画、滲んだままにする墨絵は、モノをある構図で捕らえない東洋的な本質の表現である。分析的な西洋哲学思想でなく、捕らえ方を人それぞれに委ねる、全体的な思考の提示である。

脳はどのように絵を理解するのか?

Pramtreesumieinkdrawing 脳はどのように絵を理解するのか?
名作は何故名作たるのか?を、脳の動きで解明する試みは、興味深い。それを知ることで、名作を生み出す手助けになるかもしれないからだ。

セミール・ゼキは、モノは脳が見ている(脳は美をいかに感じるか、セミール・ゼキ、日本経済新聞社)として、人間は、今までの経験と実物を照合、統一しながら、モノを感じることを明らかにしている。セミール・ゼキは、あまり感情については述べていないが、美術を定義して、「美術は恒常的なものの追求であり、その過程において画家は多くのものを捨て去り、本質的なものを選択していくので、美術は視覚脳の機能の延長にあたる」とする。認識に関して、プラトンのイデア的な「恒常的なもの」を追求するが、イデアと仮の姿との二元論から離れ、恒常的なものは、脳内に蓄積された過去経験であり、本質的なものである、とする興味深い指摘をしている。

美術は、脳に蓄積された経験の表出である。そこから受ける感動、感情も、またその人の過去経験の蓄積になるのだろうか?過去との照合を元に、モノを知覚し、その後好き嫌いなどの感情判断がでてくるのだろうか。社会学の「類同性」という概念は、過去蓄積との照合後、感情が動くことを述べている。ゼキは、フェルメールを例にとり、作品の情景が何通りもの物語を語りかけている「曖昧さ」が、多くの人の経験にシンクロし、「確かさ」になると述べる。

ある絵を見たときの「うっ」という迫力、圧迫感、脳のもやもや感は、絵に展開される曖昧さに基づいているとするゼキ理論に基づけば、抽象絵画は、あらゆる人に受け入れられる可能性がある。

何故ヒトは絵を描くのか・反響・壁の向こう側

Rainwindow ヒトはなぜ絵を描くのか?考えると、現代の錯覚に気づくので面白い。

ちょうど同じタイトルの本がある。(中原祐介:フィルムアート社)現存する最も古い絵は洞窟に残されている。これも、今残っているのが洞窟にしかないから、なぜヒトは洞窟で絵を描き始めたのだろう、という疑問にスリ替わっている。土の上、砂に描いた線描は残らない。だから、質問は、「洞窟に書かれた絵はどんな意味を持つのか?」あるいは、「何故、暗闇に絵を描いたのか?」としたほうが、気が楽だ。

昔のことを推測するとき、古代人のほうが現代より、技術、知識、哲学、精神が幼稚である。という前提に捕われがちだ。水墨画も、色彩画の前に白黒の墨絵があって、次に色つきになると、つい思ってしまう。中原が指摘する捕われがちな前提は、「言葉、文字の前に絵がある」、「新しいヒトのほうが優れている」、「視覚表現のみに頼りがち」の3点である。

片山一道との対談で、絵は実用的な、恐らく何かとのコミュニケーション、効用をもっていた。それが、文字が生まれてから、審美的な意識が生まれてきたと述べる。一例として、イースター島のロンゴロンゴ文字、いまだに解明できないこの文字を、片山は、絵だからではないかと、指摘している。私はここで、玄侑宗久の「現代語訳:般若心教」が紹介する絵心教、を思い出した。釜を逆さまに描いて、「摩訶」と読ませるものだ。1万年後、この絵文字が発見されても、解読不能な文字となるだろう。何故なら、文字ではなく絵だからである。

視覚的な表現に頼りがち、絵だけに注目するのでなく、額縁も、構造造型でもない洞窟の暗闇に、繰り返し描かれていることを含め考えるべきであるという。中原は、木村重信との対談で、洞窟画を「どこ」に描いたか、が重要であると指摘し、暗闇に何百年の時を隔て、同じ場所に重ねて描かれた洞窟画に、重ねて描かれる壁の向こう側へのメッセージを読み取る。ベルリンの壁に書かれたラクガキ、同じ場所のシルシ。洞窟画は、反響の大きな場所に描かれているという、イゴール・ルズニコフ、ミシェル・ドヴォワの研究も紹介している。

中原は、なぜ洞窟画が描かれたのかについて、猟の占呪、創造主へのメッセージ、だと一応結論づけている。壁の向こうへの存在、暗闇の存在感、現代でも失われている感受性を豊かに持っての推測は、独創性を育む。

私が思うに、洞窟の明るいところに生活していたら、洞窟の奥深い暗い闇は恐いと思う。何かが湧き上がってくる恐れ。外から攻められたら、暗い闇に逃げ込まなくてはならないし、入り口を守っていて、中から湧き上がってきたらどうしようと思う。マレーシアのスマッ・ブリは、鍾乳洞には、「ワン」という生き物がいて、人を引きずりこむと信じられている。(口蔵幸雄、吹矢と精霊、東京大学出版会)。ワンは壁の中にいるけれど、洞窟画は、壁の向こう側からの侵入者への歯止めのお札じゃないかと思う。安心感のための儀式が行われていただろうし、反響がいい場所は、その奥深いところから生活の明るい場所に、音が聞こえるためではなかったか。

洞窟画を基に、何故ヒトは絵を描くのか?という問いには、迫ることはできなかったが、少しは思考の足しにはなったのではないか。

岩田誠は、人間は長期記憶を基に作業記憶に忠実に描く(見る脳・描く脳 絵画のニューロサイエンス)、と述べる。

身体知・全体性・イノベーション

Photo_5_1頭脳、意思、知力、キリスト教的、西欧的分析論法は、身体、天候、自然にはかなわない。分析、マーケティングは過去事例であって、イノベーションは、狂気、勘、思いつき、が推進する。部分の総和以上の突然変異、の第六勘が、物事の発展を促す。

新規事業会議は、リスクを列挙するのが、発言者の役割みたいになってしまう。昔のハーバードビジネスレビュー掲載の論文に、会議で否定的な意見は、知的に見えるので、人は会議で否定的な意見を述べやすい、というのがあった。西洋的な、分解、分析、からの意見は、危ない新規事業に対して、否定的になってしまう。ソニーは、モルモットといわれながら需要を喚起した。アップル「iポッド」もしかり。サイは投げられた、ルビコンを渡ったシーザーは、決断を悔やまない。正月、日経新聞のインタビューに、塩野七生は、男は勝負をすべし、と語っていた。テレビでは、日本ハムファイターズの新庄選手が、「最初にやる勇気をわかってほしい」と言っていた。洋の東西を問わず、イノベーションは、理論の積み重ねで発生するのではないだろう。

「やってみる」ことが好きな人種と嫌いな人種がいる。どっちでもいいが、困るのは、嫌いな人種は、やってみる人種への批判をすることだ。やってみる人種は、他人への興味はあまりないから、あまり気づかない。真のイノベーションに必要な人種は、やってみる人々だと思うけれど。

現代マーケティングは、いい商品がズラリと揃った中からいかに自分の作品を買ってくれるかという「場面の開拓」にシフトしている。アートのお客様は、お金持ちなのか。大衆マーケットを相手にしたい。そうすると、水墨画も実際の勝負は、自分のファンをどう開拓していくかにかかっているのではないか。 

水墨画 右脳 ネガポジ

342059477_e9dd1b776c水墨画はネガポジ逆転なので、右脳の訓練になる。空を見ると、雲ではなく青空を見る。水墨画では、雲は描かず周りの青空の形の反転が雲になる。墨の臭いもハマるきっかけ。和のにほいは、普段は嗅がないけれど、若い人も嫌がらない香りではないでしょうか?硯をこする音、筆が紙をこする音、干渉でなく絵を描くときは、五感が刺激されます。どうです、水墨画、趣味で始めてみたらいいと思います。

滲み エンボス 立体感

2水墨画がインクドローイングと違う点は、滲みである以前述べたように、滲みを水墨画の特徴とするのは、矢代幸雄「水墨画」のアイデアだ。一筆の濃淡で、立体感を出す技法は、水墨画の教室で習った。その水墨画の技法は、宗達の「いんげん」に既に表れている。没骨法というのか(島尾新:水墨画を語らう)

試しに、水墨画をエンボス処理すると、元の陰影で立体的に見える。Ron Hui教授の水墨画3Dアニメーション「Ode to the Summer」

模写・水墨画の歴史・インクドローイング

Buddha2水墨画発見(山下裕二編、平凡社)を参考に、昔の水墨画を模写した。よく水墨画評論にある「この線が気持ちいい」というのは何故か、を描いて体験してみる。絵は、パーツごとの位置関係の積み重ねだと何かの本で読んだことがある。模写していてわかったのは、昔の水墨画は、部分の積み重ねでなく、全体の調和で成り立っていることだ。部分の集合が全体にならない、という命題がまた当てはまる。

いくつかの線が視線の方向性を援助し、画題がどこにあるかを教える役目をする。人(らしきものを含む)を描くとき一番重要な線は、着物の襟首、前のあわせの線である。次ぎが、肩のライン。あとは細部、細かく描いても省略しても、好きに描けばよい。

水墨画の歴史、はじまりは、文章描くのに飽きたときの落書きみたいなものではないか?海外のインクドローイング(ink drawing)は、サインペンで描く線描アートだ。やり直しは、墨絵同様きかない。ルーブル美術館にも、インクドローイングは所蔵されてないのではないか。アメリカでは、グラフィティ・アート、バスキア、キース・ヘリングが有名だけど。

外国の人に水墨画を見せると、必ず、筆、インクと紙の種類をきいてくる。水墨画というジャンルが芸大にはなく、なんとなく権威づけがない、やり直しがきかない、巷間聞かれる水墨画についての話は、インクドローイングと全く同じ。

国立博物館に行って年代順に展示を見てると、色彩豊かな絵巻物なんかの次に、いきなり白黒の水墨画が飾られ始めるので、はじめて写真、テレビや映画と違う発展の歴史なんだと気づく。カラーの時代に、白黒で表現する人は、変わったこだわりの人じゃないか。昔も同じではないだろうか。あるいは、現代のインクアーティストのような、権威的画壇の外にいる人たち。わざわざ白黒を選ぶか、白黒でしか描けない、身近に墨がある人たち。

お坊さんが描く水墨画、たくさん残されている。仏教が全体性を追求する哲学ならば、絵もそれに影響されてるだろう。線をとりあえず描いて、なんとなく見えるという感じの絵は、まさに全体性の発露である。画壇に水墨画ジャンルがないのは、副業的な存在、西洋絵画理論と違うから(推論)、という理由か。

人物を描くときは、まず顔の輪郭のあたりをつけて、着物の襟、肩の線から始めたはずである。昔ノートに書いた似顔絵と同じ。絵を見て、気持ちよく感じる線は、その描き始めの線である。そこに迷いがないなら、見ていて気持ちいい。

美術評論・水墨画 滝の流れ

Waterfall 最古の絵はラスコーショーベ(Cahuvet)であり、最古の文字は亀甲文字か。キリスト今日の絵画は教義を伝えるものであり、白隠の水墨画もそうだ。(山下裕二:水墨画発見)最古の絵は暗闇に描かれ、文字は祝器に入れられた。(ヒトはなぜ絵を描くのか:中原祐介、白川静:漢字百話)絵、文字は、神とのコミュニケーションのための道具であった、というのが学問の知見だ。

現代は文字文化だ。絵も文字、ロジック、文脈で説明する。いや必要がある(村上隆:芸術起業論)。図象学は、絵をロジックで解明する。風水は、実利、現象で説明する。絵を見る視線が、店の外に向かうようだと、自然と店が盛り上がらない。ニューロサイエンスのような、この絵を見たとき血流がどこに流れているか、といった解明が絵画批評の終着点だ。

滝が、右に流れるか左に流れるか、絵を掛ける場所による。美術評論は、ある絵の滝の描写が、気持ちよく感じるのは何故か?を、解明する必要がある。その解明を基に、作り手側はこういうことを伝えたいからこう描くという手法の学習が必要だ。

なぜ人は絵を描くのか?「赤ん坊は絵を描いて何かを伝えようとするだろう。その衝動が芸術だ」とある人が言っていたけど、自分の何かを伝えたいため、、、それをピュアに押し出すのは、危険すぎる。。。人のことなんて普通興味がない。作品を市場が受け入れ、批評が解明し、それがノウハウになり、クリエイターが次の作品を作るというのが、アートの発展である。

水墨画・反復・植物の知覚

Clouddragon 反復・繰返は、脳で考えることをやめさせる。ということは、脳で考えない知覚があるということだろうか?

例えば、植物は情報を集約する脳はないが、葉の細胞全体が、危険回避行動をとるという。害虫の天敵が好きな匂いを出し、天敵を自らの周りに侍らせ自身の害虫が近づくのを防いだりするそうだ(永井俊哉ドットコム「植物化型情報システムの時代」)以前見た、藤枝守の「植物文様」は、そうした植物の動きを電気的に捉え、音楽にしていたのだ。その音楽は・・・以前述べたとおり心地よかった。その心地よさは、記憶にあるものを思い出したのではなく、ただ心地よかった。

植物の知覚を、水墨画で再現できるか?間接的であるが、脳で考えない手法を考えれば、一歩近づけるのではないか?同じ模様を繰り返してはどうだろうか?龍を描くときの雲、植物の茎など、ほとんど手くせで描くモチーフがある。雲や、複雑な茎などは、個々のつながりを追っていくうちに面倒くさくなって、ボーとする。心地よさ、ひらめきがやってくる瞬間があるときと無いときがあるが・・・

水墨画が禅画の系統を引いているのも、ちょっと理解不能な公問のような、絵を見ているうちに面倒になってボーとする瞬間の作用に、禅のお坊さんたちが気づいていたからに違いない。それを現代のモチーフにあわせて描ければ、新たな世界が広がる。

水墨画とセロトニン・解脱・快感

Sumiesuibokugawater 同じ文芸春秋12月号で、柳澤桂子が、セロトニン(抑制性の神経伝達物質)の分泌が、悟りの状態へ人間を導くと示唆している。ガムを噛むなど、単純なリズムが、強いストレスに打ち勝つため、セロトニンの分泌を促進し、悟りに至るのだという。玄侑は、古代インドでは「あ、う、お」の母音を重要視され、中国でも、意訳でなく音をそのまま残したままの訳で経典を残したという。

水墨画で、リズム感を表現できるだろうか?今bunkamuraで開催中の、「スーパーエッシャー展」にエッシャーが、バッハの曲を図で示した試みが展示されている。角度が音の長さ、距離が音の距離を表すモノだった。

今の音律は、キリスト教の正比率の影響で、音間が等間隔にできている。しかし、オクターブを超えると自己矛盾をはらんでくることが昔から指摘されている。一方、水墨画では、木々の枝ぶり、実のつき具合、鳥の配置、など等間隔のモノは全て廃せられる。全体構図からして、紙の中心でなく端っこに描くのだ。恐らく等間隔ほど美しいという意識を持っている現代の教育を受けてきた人間からみると、このアシンメトリーな構図は、あえて意識しないと描けない。アシンメトリーこそが、リズム感を生んでいるのだが。。

例えばこの作品は、等間隔を美しいと思う現代的美意識から抜け出せないでいた時の作品である。様々な西洋美術のシャワーを浴び、水墨画を描くとこうなるという作品の典型だ。この、等間隔な岩の羅列から、ほとばしる水流を感じることはあるのか?一見、ポスター風なこの作品は、西洋キリスト教文化を吸収している若者には、アレルギーはないだろう。しかし、自然に親しんでいる者ほど、わかってない、となる。

そのストレスを、悟りに変化させる手段はないのか?水の流路に、変化を付ければよいのではないか。一見、見るとストレスであるが、眼球の動きにリズム感を生み出し、セロトニンを分泌させ、快感につなげる。悟りに至る絵の方法論である。左と右、動きを感じるのはどっちか?

Suibokugasumieconposition1Suibokugaconstruction


無の存在:グーグルと悟り・空・瞑想

Laosdoggirl水墨画は無を描く。文芸春秋12月号の、柳澤桂子と玄侑宗久の悟り、空に関する対談が興味深い。1)悟りに至るストレス、リズム、セントロンの役割、2)素粒子物理学が見る全体統合の世界、3)瞑想時の脳内の血流、3)神に関する記憶の遺伝。特に3)、ユージン・ダキリによれば、瞑想時、自分が何処に向いているかを認識する脳の部位(上頭頂葉後部)への血流が止まるという。玄侑は、あらゆる現象が、主体と関係性で生じる出来事とされた、と述べている。科学は分析するものではなく、物事を紐付け、ハイパーリンクさせていく方向に向かっている。グーグルが本気で目指すのもそこか。

例えばこの作品は、等間隔を美しいと思う現代的美意識から抜け出せないでいた時の作品である。様々な西洋美術のシャワーを浴び、水墨画を描くとこうなるという作品の典型だ。この、等間隔な岩の羅列から、ほとばしる水流を感じることはある白川静は梅原猛との対談集「呪の思想、平凡社」で、「存在」という字をその成立から見ると、神聖化された土地と人という意味になる、と述べている。柳澤の、神は脳に存在する、遺伝する、という言葉を踏まえると、無の存在は、全体となり、悟りとなる。無は、社会という横軸、時間という縦軸で囲われる共有記憶であり、墨は、記憶を呼び起こすトランスゲートである。